自分で生きてる病 ( 孤立と孤独と死の恐怖の理由 )


  • 「自分で生きてる病」の随想録
  •  「自分で生きている」の結果は、孤立と孤独と死の不安です。現代人は、殆どの人が、「自分で生きている」と思っています。しかし、「自分で生きている」ということは、自分の力で、自分を守らなければならないということです。社会の中では、自分の力で、衣食住を得ることと、身の安全を確保しなければなりません。病気や老いや死に対しても、自分の力で、対処しなければなりません。自分の力で生きると意識すればするほど、孤立と孤独になります。さらに、死の不安が忍び寄ってきます。

     特に、「バラバラさん」の性格の人では、自己防衛本能(E)が、極めて肥大しています。常に不安にさいなまされます。さらに、対人関係は、人の欠点を見る能力であるAです。最悪の場合は、周りの人は皆、敵に見えます。不安一杯で、周りは敵、このような心の状態の中で、自分の力だけで、社会的生活も、生命も守らなければならないのです。過酷です。

     「普通さん」タイプの人では、対人関係は、人の長所を見るBですから、人とくっ付くことはできますので、大丈夫のように見えますが、人は、自分の思うようにはなってくれません。「バラバラさん」タイプの人からは、お節介な人として嫌われるでしょうし、「普通さん」タイプ同士では、お互いが、「俺が、俺が」、「私が、私が」になりますから、腹が立つだけです。結局は、一人ぼっちになります。「普通さん」タイプの人は、人が好きで、最も嫌なことは、孤立と孤独ですから、この一人ぼっちは心底辛いものでしょう。


  •  「自分で生きている」、皆がそう思っていますが、心臓を1回といえども動かしたことはありません。太陽も、酸素も、水も、自分では作っていません。「自分で生きている」は、100パーセント妄想です。妄想だったとしても、それで楽しい人生であれば、余計なことを言う必要はありません。しかし、「自分で生きている」の結果が、孤立と孤独と死の不安だったとしたら、それでも、現代人は、「自分で生きている」と主張し続けるのでしょうか。

     「自分で生きている」ということと、「生かされてる」ということは、ほんの少しの言葉の違いだけのように見えます。 確かに言葉としてはそうですが、その中身は全く異なります。「自分で生きている」というのは、自分の存在の肯定のように見えていて、結局は、存在の否定、自己否定になるからです。

     「自分で生きている」と考えると、自分の生命は自分で守らなければならないという強迫観念に支配されます。最後には「死んだら灰になっておしまい」が来ます。「死んだら灰になっておしまい」は、最大の存在の否定です。自分は所詮は空しいものです。心から晴れやかに笑うことはできません。自己否定に陥ります。

     また、「自分で生きている」という考えからは、社会の中で、生存競争をしなければならないという強迫観念が発生します。戦い、競争に勝ち、社会の評価を得なければ、生きていけないという思いで生きることになります。社会で勝ち続けることは不可能ですから、社会から存在の否定体験を受けることになります。緊張と不安、自律神経失調症に落ち込みます。

     「自分で生きている」というのは、死と社会からの二重の存在の否定を受け、自己否定に支配されることになるのです。このような状態で、自信がもてますか? 自己肯定ができますか? 今ある自分を、この人生を喜べますか?


     貧しい時代には、このようなことは問題になりません。ご飯を食べることが、最大の目的であり、幸福でした。ハングリーなエネルギーは、強力なものです。何もしなくても、エネルギーは湧いてきます。物質的により良い生活をすることが希望です。エネルギーも希望も、湧いて出てくる時代です。

     死と社会から存在の否定により、自信喪失で苦しむのは、物質的に豊かな時代となり、さらにもう発展できなくなった国に起こる現象です。現代の日本が、まさにその状態にあるわけです。

     しかし、それは単に貧しいとか豊かとかいう表面的な問題ではなく、その根底は、Fの芽生えなのです。衣食住で精一杯のときには、F(自分を生きたい自分)は発生しません。つまり、傷つく自分がないのです。傷つく自分がなければ、どんな行動もできます。失敗も苦になりません。 正確に言えば、勿論、Fはあるのです。人間である以上、Fのない人はいないのですが、Fの目的が、完全に社会適応になっている、つまりE(自己防衛本能)とD(快楽満足本能)で、何の空しさもないという状態だということです。

     発展途上国のエネルギーは、このようなものですし、過去の日本も、そうであったのです。 しかし、豊かな時代になれば、Fは、自分を生きたいと願い始めます。これもまた、当然のことですし、自分を生きなければ、人間に生まれる必要はありません。EとDだけが目的なら、動物で良かったのです。動物の本能は実に素晴らしいものですが、人間は本能からかなり自由にしてもらっているので、人間の本能はお粗末なものです。

     中途半端に、人間に生まれて、本能もお粗末、社会適応もうまくできず、傷つく自我だけ、これでは本当に人間に生まれなかったほうがよかったですね、と言いたくなります。本当に悲しいことになります。「人間に生まれたからには、自分を生きる」、この喜びを得なくては、意味がありません。だから、Fの芽生えは、大いに歓迎なのです。

     ただ、Fが、「自分で生きている」という考えを持てば、死と社会からの存在の否定を受け、自己否定に落ち込みます。自己否定に落ち込めば、中途半端な人間になります。現代の私達が陥っている状態です。 「生かされてる」のは、Yu(ユー)によって生かされてる事実の世界です。かぎりなく優しい、無条件の存在の肯定です。また、死は終わりではありません。新しい身体をもらう出発です。「自分で生きている世界」と、Yu(ユー)によって「生かされてる世界」は、このように全く違う世界なのです。Yuの世界を学びましょう


  •  自分を肯定できる日は、充実感があり、明るくてウキウキとした世界です。 充実感に満ちているときには、失敗も陰口もいじめも何のそのです。うじうじと群れて人の悪口を言っている人たちが、弱く哀れに見えます。しかし、自己否定の日は暗く憂鬱です。暗く憂鬱になってくると、コップを1個割っただけでも死んでしまいたくなることがあります。

     同じ世界なのに、自己否定と自己肯定とは、これほどまでに違うものです。本当に、自己否定は恐ろしい暗闇の世界です。その自己否定の原因で重要なものは、幼い日の存在の否定体験ですが、最も根本にあるものは、「自分で生きている」ということからくる存在の否定です。
  •  心臓を1回も動かしたことがありません。太陽も酸素も水も自分で作っていません。それなのに自分で生きていると思っています。大きな生命の世界から遠く離され、社会的存在価値しかありません。孤立と孤独と死の不安に支配され、比較と競争で苦しんでいます。早く生かされてる医学的事実を学びましょう。
  •  私達は、1個の受精卵から60兆個の細胞になり生きています。1個も自分で増やしていません。心臓は10日に10万回動いています。1回も動かしていません。太陽も酸素も水も造っていません。しかし、自分で生きていると思い込んでいます。100%の妄想です。「自分で生きてる病」と呼んでいます。
  •  大きな生命の世界で素晴らしい法則と美しい調和と限りない優しさの中で生かされています。愛と存在価値とご飯を既にもらっています。それを壊しているのは、自分で生きてる病、唯物論、競争社会です。孤立と孤独、虚無と死の恐怖は、私達が生みだした妄想です。事実を見ましょう。空も海も青いです。
  •  自分で生きてる病の患者であり、唯物論を信じ、不毛な競争社会で生ています。孤独と孤立、虚無と死の恐怖に支配されています。愛も存在価値もご飯も、自力で獲得しなければなりません。あまりにも過酷な中で生きています。これが現代人の私達の姿です。しかしそれらは事実に基づくものではありません。


  •  「自分で生きてる病」の恐ろしさを理解してください。特に、子供のことで心配されているお父さん、お母さんには是非この問題の深刻さを考えていただきたいと思います。

     殆どの人は、自分で生きていると思い込んでいます。大きな生命の世界によって生かされていることが分かりません。大きな生命の世界から切り離されています。「自分で生きてる病」の人には、社会しかありません。 社会の中で愛と存在価値とご飯を得るためには、社会適応しなければなりません。社会適応するには、「自分を生きたい自分」を抑えなければなりません。自分を生きたい自分は窒息します。窒息は嫌です。

     でも、社会適応はしなければなりません。しかも社会適応は競争ですから、勝ち続けることはできません。この終わることのない葛藤の中で、徐々に生命力と充実感を失い、自分を生きることも社会適応もできない諦めの状態に落ちていきます。無気力、無感動化していきます。新型ストレスの第3の自分の状態です。

     親が「自分で生きてる病」であれば、子供も「自分で生きてる病」にならざるを得ません。親も子も不幸に追い込んでいきます。 そして、なによりも「自分で生きてる病」は事実ではないのです。「自分で生きているのか、生かされて生きているのか、医学的事実はどちらですか?」と、繰り返し問い続けてください。繰り返し続けていくと、不思議な事に雰囲気が変わってきます。なんとなく安心感が感じられてきます。さらに続けていくと、ふとした喜びや優しさも感じられてきます。なんとなく現実も変わってきます。簡単なことのようですが、これは人生の根本の問題だからです。

  •